2012年5月20日日曜日

地図が好き(No.152)


さて、地図を見るのがとても好きなの
だが、それはすなわち自分の位置を確
認したいというと気持が強いのだろう
な、と思う。

地図で確認しながら車を運転するのが
ちょっと辛くなってきたので、いやつ
まりは老眼力が作用してきたので、ナ
ビゲーションシステムなるものを導入
したところ、途端に位置確認は衛星に
よって自動化されて、ハッキリ言うと
つまらなくなった。

画面上の地図らしきものに、現在位置
確認がキチンと示されているにもかか
わらず、迷い子になっている気分とで
も言うか、とにかく感覚的に位置確認
が出来ていないのだな。

何故なんだろう?

それは、全体像が把握出来ていないか
ら。というのが暫定的な答え、つまり
仮説としてみた。

全体が分かるから、その中のどこにい
るのかが始めて理解出来る。ところが
どっこい、ナビは部分的な情報しか示
してくれない。その上、結構場当たり
的な意思決定の姿勢が見える。
 真実は常に相対的だからして、比較
対象がハッキリしていないと事実確認
も難しくなるんだろうな。

ナビは正確な情報を与えてくれるし、
いろんな表示もできるのだが、いかん
せん自分中心だ。しかもご丁寧に、声
で優しく導いてくれるもんだから、思
考力すら低下した気がする。

全体像を把握せず、行動は場当たり的。
かつ自分中心で、浅い思考力。ってち
ょっとひどいから、良いところも考え
てみようじゃないか。

まず、記憶力が凄い。プログラムされ
ているとはいえ、打つ手の数は人間の
比ではない。しかも判断力と決断力が
凄い。全く迷ってないもんな。いや、
多分考えてもいない。さらに曖昧さも
なく、事実のみを遠慮なく示す冷静さ
がある。



う〜ん、優秀だけどちょっと冷たい奴
だな。 明快なんだけど、話すと何故か
不安にさせるタイプかも。

ういえば昔、留守番電話を導入した時
にわかったのは、もしかしたら誰かから
電話があったかもしれないな、という曖
昧な部分に対する想像力が無くなること
だった。




情報通信の発達で、同じような隙間感と
いうか曖昧さに宿る想像力というか、そ
ういった感覚の住むスペースが、どんど
ん無くなってきている気がする。

だいたいこの辺りにいるんだろうな、と
周囲の状況を地図の中の情報に照らし合
せながら判断して動きを読んでいくのが、
地図の楽しさだからして、そんな迷いを
与える暇さえないナビがつまらないのは
当然と言えば当然なのだろう。
しかも、自分の判断で決定していない
から、意識が定まっておらず、精神的
に迷い子のような感覚に落ち入ってい
るのだろうな。

 だろうだろうと、推測しつつの位置
確認が、実は楽しかったりするのかな?
あんまりハッキリとした事実を突きつ
けられると、空想の余地がなくなって
希望を失ってしまうのかな?曖昧さっ
て、甘えに近いものなのかな?

そういった疑問な空間の中で漂うよう
な地図で遊ぶ感覚が、ナビでは提供さ
れないことだけは確かだ。

 コレって、高度な情報化の中にいる
息苦しさと、ちょっと似ているな、と
感じつつ、その中から何を自分で選択
していくかが結構大事だな、と たか
だかナビを操りながら気がついたとい
うとだけの話なのだった。




何事も体験してみるもんだな〜。

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